「大地(Social Distancing Version)」(2020/08/14マチネ)

作・演出 三谷幸喜

 

キャスト

 俳優たち チャペック 大泉洋

      ブロツキー 山本耕史

      ツベルチェク 竜星涼

      ピンカス 藤井隆

      ミミンゴ 濱田龍臣

      ズデンガ まりゑ

      ツルハ 相島一之

      プルーハ 浅野和之

      バチェク 辻萬長

 指導員  ホデク 栗原英雄

 政府役人 ドランスキー 小澤雄太

 

 

 

とある時代のとある国

「役者」についての物語

 

舞台はとある共産主義国家。

反政府主義のレッテルを貼られた俳優たちだけが

収容された施設があった。

 

強制的に集められた彼らは政府の監視の下、

広大な荒地を耕し、農場を作り、家畜の世話をした。

 

過酷な生活の中で、なにより彼らを苦しめたのは、

「演じる」行為を禁じられたことだった。

 

三谷さんは、パンフレットの中で、こう書いていらっしゃいます。

「俳優についての物語を書きたかった。僕にとって恩人とも言うべき彼らを真正面から描いてみたかった。」

 

喜劇のようで、悲劇でもあり。

これは、今まで私が拝見してきた、三谷さん脚本・演出の舞台とも重なるようにも思えて。

コンフィダント・絆」や「国民の映画」のような、なんとも苦いお話でした。

そんなにたくさん、拝見してきたわけじゃないんですけどね。

 

役者さんは、みなさん、さすがで。

当たり前なんですが、普通に話しているように感じるのに、はっきりとセリフが聞き取れることに感動。

どうやったらあんな発声ができるんだろう。

結構大きな声で話しているつもりでも、聞こえない、といわれることが多いので、ちょっと学びたい。

発音かなあ・・・。

まあ、それはさておき。

 

皆様、存在感ありまくりで。互いの個性を消すことなく、それでいて自分の個性を前面に押し出している・・・というのが、さすが一流の役者さんだなあと感じました。

 

大泉洋さんのチャペックは、どこか真田信幸を思わせる苦労人で。

山本耕史さんは、相変わらずの白い筋肉マン。

(今回は、なんとも格好いい山本さんは拝見できず。一瞬フリーザが出た気がする。)

藤井隆さんは、お笑いの人という役どころもあってか、不自然に誇張されているにもかかわらず自然。

2幕にある、各役者さんが自分の芸を見せるところでは、(この役者さんとは、舞台中の俳優たち)見事に引き込まれましたし、自然と拍手もしてしまいました。

いや、素晴らしかったです。

いいもん、見させてもらったわー。

 

・・・と、ここまでがネタバレは(たぶん)含んでいない感想です。

 

以下、ネタバレ含みます。

お読みになりたくない方は、ここまでで。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちょっと、あけてみました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もうちょっと、あけてみました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さて、感想です。

 

冒頭で、三谷さんのナレーションが入ります。

確か、

「役者と舞台と観客がそろって初めて演劇になる」

といった内容だったと思います。

(訂正「役者と本と観客」でした。8/29追記)

 

コロナ禍の中、演劇の灯を消さないために。

そういう意図のご挨拶かなと思いました。

 

ここからがっつりネタバレします。

 

このお話の中で、8人の俳優が登場します。

国民的舞台俳優。

世界的なパントマイム演者。

お笑い芸人。

映画スター。

舞台演出家。(この人は俳優ではないか?)

俳優になったばかりの大学生。

エキストラもしくは大道具・小道具などの製作をする役者。

 

彼らは、労働をしながら、なんとか日々を生き延びている。

そんな中で、彼らは共謀して政府役人を欺いて、ちょっとしたお芝居をします。

うまく立ち回って、政府役人にも気づかれず済ませられたはずでした。

しかし、一つのミスが、破滅へとつながります。

 

欺かれていたことに気が付いた役人は、彼ら全員を「谷の向こうの収容所」(より過酷な労働を課され、おそらく帰ってこられない場所)へ送ろうとしますが、指導員のとりなしにより、一人だけそちらへ行けば、あとの7人は見逃そうといいます。

 

ミスを犯した者が、「自分が行く」といいますが、それを止める人もいて。

「こんなことはおかしい」と正論を吐く者は、「お前が行くか」と言われれば沈黙をしてしまう。

家族を持たない者が名乗りをあげると、本当のヒーローになれるチャンスだからと彼を止めて自分が行こうとする人。

 

どうにも収拾がつかなくなったとき、役人が言うのです。

指導員が決めればいい、と。

 

指導員は、一人ひとりの名をあげながら、いかに稀有な才能の持ち主であるかを語ります。

そして、大道具もこなす役者を「谷の向こうへ行く者」に選ぶのです。

「大道具は、別の人でもできるから」と。

(こういう意味のセリフを言うのです)

 

・・・これは、私には、あまりにも辛い言葉でした。

大道具の役者は、パチェックは、誇りをもって、ここで自分の役割を果たしていたんですよ。

ここには自分の居場所がある、と。

演劇の世界では、大した役ももらえず、日の目を見ない役者だったけれど、ここでは、みんなのために働いて、みんなから頼りにされている、そう思っていたんですよ。

 

それが、「変わりはいる」

だれにでも、彼の役割はできるといわれたわけです。

 

天才たちは、惜しまれて。

凡才は、軽んじられる。

 

といえば、才能のないものに対する残酷な通告ともいえるお話。

 

私自身を振り返ってみたとき、私は決して「いなければならない、替えのきかない人材」ではありません。

「便利に使われるコマ」です。

 

それでも、毎日の仕事を私なりに一生懸命やっているつもりです。

これが、誰かのためになるといいなと思いながら。

 

「僕のした単純作業が

 この世界を回りまわって

 まだ出会ったことのない人の

 笑い声を作っていく

 そんな些細な生きがいが

 日常に彩りを加える」

 

Mr.Childrenのこの歌は、そんな私への励ましです。

 

でも、パチェックは、真っ向から否定されたんです。

こつこつと頑張ってきたことを。

誠実、ではなかったかもしれないけれど、一生懸命生きてきたことを。

お前には才能がない、替えのきく人間だから、と。

 

これは、私への矢でもあるわけで。

 

ならば、替えのきかない人間となれ!と言われれば、正論でしょうが、少なくともパチェックはそうしてきたつもりだったはず。

それでも、才能がないからと切り捨てられるんです。

 

なんて、残酷。

 

平凡に生きる人を切り捨てる、才能のある人たち。

どこかで、シェフネッケルを思い出します。(『コンフィダント・絆』の)

シェフネッケルも仲間だと思っていたゴッホゴーギャン、スーラから、全く認めてもらえていなかった。

 

パチェックも、8人で劇団を作って地方回りをして、と夢を語っていましたが、彼らから仲間だとは見てもらえていなかったのではないでしょうか。

そんなセリフはないけれど。

パチェックが選ばれたとき、誰も、それに異を唱えなかった。

他の誰かが「自分が行く」と言ったときは、止める人がいたのに。

 

そして、パチェックが去ったあと、「大切なものを失ったことに気が付く」という彼らですが。

その大切なものとは「観客」なのです。

 

「観客」がいなければ、演じられない。

 

冒頭の三谷さんのナレーションと重なる部分です。

 

 

でも。

パチェックは、観客になりたかったんじゃないと思うよ。

 

一緒に舞台を作りたかったんだよ。

 

パチェックという一人の人間を必要としているのではなく、「観客」という記号を欲していると考えると、パチェックは浮かばれないよね。

 

そんなことを考えて、つらい舞台だったなあと思うわけです。

 

自分に置き換えてもつらい。

パチェックの立場で見てもつらい。

 

無論、三谷さんは、そんな平凡なパチェックを切り捨てているわけではないと思います。シェフネッケルのように、大切に思って書いていらっしゃるのだろうと思います。

傲慢で、芸術家で、才能にあふれる役者たちの、さが。もしくは業。

そして、観客を切り捨てたことに気が付いた役者たちは、もう舞台に立つことができなくなった。

自分たちだけで芝居ができるわけではないと、気が付いたのかな。

映画スターは、釈放後、再び映画に出ているということだけど、それも、映画はライブじゃないから戻れたということなのかもしれない。

 

ラストシーンで、パチェックの夢が描かれているのが、愛しくて、切ない。

 

感動、すばらしい、泣けたわー。

 

・・・というカタルシスとは無縁の、苦くつらい、でも、いろいろと考えさせられる舞台でした。

 

実は、もう一回見る予定があるんですよね。

でも、耐えられるかな、とちょっと不安。

もう一回見ることで、見え方がかわるかな。

新しい視点が得られるかなあ。