「大地(Social Distancing Version)」(2020/08/23マチネ)

作・演出 三谷幸喜

 

キャスト

 俳優たち チャペック 大泉洋

      ブロツキー 山本耕史

      ツベルチェク 竜星涼

      ピンカス 藤井隆

      ミミンゴ 濱田龍臣

      ズデンガ まりゑ

      ツルハ 相島一之

      プルーハ 浅野和之

      バチェク 辻萬長

 指導員  ホデク 栗原英雄

 政府役人 ドランスキー 小澤雄太

 

 

千秋楽公演でしたので、一回だけカーテンコールがありました。

「三谷さんから指令があったので」と大泉さんが濱田さんに初舞台の感想を聞いていました。

濱田さんは、感極まって涙。

いっぱい三谷さんからダメだしもあったけれど、よくなっているといわれたことなどをお話しされていました。

藤井さんのアドリブでは、今日も大笑いで、しばらく芝居が止まったりもしていましたし、楽しんでいらっしゃるなあと思っていたのですが、いっぱい苦労もされたんだなあと。

 

(藤井さんのアドリブで言えば、今日は山本さんもマジ受けして芝居が止まるところがありました。

 そうそう、濱田さんの大うけのネタは、山本さんネタでした。

 藤井さん、結構山本さんのこといじっていたなあ)

 

大泉さんからは、奇跡のような公演だったとご挨拶がありました。

スタッフの人数も厳選されて、かなり大変だったことや、ご飯を食べるのもいつもこのメンバーだったことなど、とても厳重に管理されていたことをお話しされていました。

無事完走できたことへの感謝と、ここからまた始めて行こうというメッセージと。

次は「大地2~チャペックの帰還」でお会いしましょう!・・・はリップサービスだと思いますが、それでも、そうなったらいいなあと思いました。

 

 

 

以下は、舞台の感想です。

二度目の観劇で、前回と少し感想が変わりました。

というか、少し別の視点の感想が生まれました。

 

基本的に、前回の感想を否定するつもりはないんですが。

別の角度から見たら、こういうお話かなあという、そんな感想です。

前回の感想は、こちら。

「大地(Social Distancing Version)」(2020/08/14マチネ) - ココロうるうる日記

 

 

前回は、それぞれの人物のストーリーに目が行ってしまって、ついついチャペックに感情移入をしてしまったのですが・・・。

彼らは芝居の中のある要素を象徴している存在でもあるのだなと思ったのです。

 

映画、ストレートプレイ、身体を使ったパフォーマンス、伝統芸能、お笑いなど、演劇もしくは舞台にかけられるものの分野。

演出。

脚本。

演劇の未来。

舞台装置。

観客。

 

観客は、ラストに明かされますので、同様に、ほかの人たちの役割も考えるとこんな感じなのかな、と。

 

役者いて、本があって、観客がいれば、芝居はできる。

 

という冒頭の言葉と重ねて考えると、そうだよね。

もちろん、これは前回も同じようなことも思ったわけですが。

どうしてミミンゴをあれほど庇うのかということだけ、ちょっと引っかかっていたので。

彼が「未来」もしくは「後継者」と考えれば、切り捨てられないわなあ・・・。

もちろん、どれも切り捨てられないものだったから、あれほど迷ったんだろうけど。

 

チャペックを一人の人格として見れば、一生懸命頑張って、みんなに尽くして、それなのに切り捨てられることに憤りも感じるわけなのですが。

 

(でも、チャペックは確かに彼らの仲間では、ないんだろうな。

 ゆで卵の件でも、「仲間」認定されていないようだったし。

 晩餐会にも参加できなかったし。

 打ち上げも、片付けが終わってから参加だと言っているし。

 普段は、みんなチャペックにあれこれ頼むくせに、ひどいと思うけど)

 

芝居という大きな生命体を形作る要素の一つと考えれば、何かを切り捨てなければならないとき、まず切り捨てるのは舞台装置だというのは、わかるような気もします。

セットがなくても、音楽がなくても、照明がなくても演じたと、プルーハは言っていましたもんね。

 

芝居に必要なものは、役者と、本と、観客。

舞台装置は、なくていい。

なければ、あるように見せればいい。

あの晩餐会のように。

それができるのが、役者、だから。

 

しかし、舞台装置を捨てたつもりが、実は観客を切り捨ていていた。

そこに、もはや芝居の生きる道はない。

 

と、いう暗喩。

 

暗喩と書きましたが、これは、はっきり言われていることなので、誰にも伝わるメッセージですね。

 

ただ。

彼らは本当に舞台装置を捨てたのか。

もしかしたら、観客を捨てたことに気が付いていたのではないのか。

役者がいれば、芝居はできる。

そんな傲慢な思いがなかったといえるのか。

 

どこかに自分たちを特権階級のように思っているところが演劇界にあったと、皮肉っているとは言えないか。

このコロナ禍で、観客がいなければ立ち行かないことをまざまざと突き付けられた演劇界に対し、原点に立ち返れ、というメッセージだったとは言えないか。

 

なんてことを考えてしまいました。

 

 

また、芝居という大きな生命体を構成する各要素、というとらえ方もできるけれど、三谷幸喜という演劇人を構成する各要素と考えることもできるのではないかと考えたりもします。

 

こんな風に考えるのは、映画があるからですが。

ストプレあり、ミュージカルあり、喜劇あり、人形浄瑠璃あり、映画あり。

脚本家で演出家。

どれも三谷さんを構成するものですよね。

自身が観客の視点を失ったら、もう、芝居はできない。

そんな意味合いもあるのかもしれないと思いました。

 

 

もっといろいろな見方があるのだと思いますし、私の見方はこじつけだといわれるかもしれません。

 

で、結局、どういう解釈なん?って言われるかも。

 

あんたの解釈としては、どれをとるん?って言われたら、全部、です。

 

人間模様の愛憎劇として見たら、チャペックが可哀そうすぎるですし。

芝居を象徴しているとして見たら、現在の危機を如何に乗り越えるかですし。

三谷さん自身として見たら、冷静に自己分析しつつ自戒を込めていると思えます。

 

あー、もっといろいろな見方があるんだろうなあ。

そんな解釈をお聞きしたい。

 

こんな風に、もやもや考えて、いろいろと勝手に解釈をできるのはいいな、と思います。

見ているときも、楽しかった(心動かされた)けど、見終わった後も楽しめるから。

 

そういうのをひっくるめて、楽しい舞台でした。

次に、観劇に行けるのはいつだろう。

今のところ、全く予定はないのですが。

満員の客席で、観劇できる日が、またやってきますように。