「国民の映画」
彼らが
愛したのは
映画か――
国家か――
あらすじ
1941年秋、ベルリンの夜。
パウル・ヨゼフ・ゲッベルスは、ベルリン郊外にある別荘に映画関係者を集めて、ホームパーティを開こうとしていた。
ゲッベルスは、ヒトラー内閣がプロパガンダのために作った宣伝省の初代宣伝大臣。
彼には映画、音楽、絵画、演劇、ラジオ、新聞など、全ての芸術とメディアを監視、検閲する権利が与えられている。
(中略)
パーティに集まった面々に向かって、ゲッベルスは彼らを集めた本当の理由を話し始める。
彼は最高のスタッフとキャストを使って、自分が理想とする映画を作ろうと考えていたのだ。
アメリカ人が作った『風と共に去りぬ』を超える映画を。
全ドイツ国民が誇りに思う「国民の映画」を。
発表に驚き、「国民の映画」に関わることを熱望する映画人たち。
しかしその陰で、止めようのない歴史の歯車が、静かに回ろうとしていた――。
(プログラムより)
††キャスト††
ヨゼフ・ゲッベルス 小日向文世
ハインリヒ・ヒムラー 段田安則
ヘルマン・ゲーリング 白井晃
マグダ・ゲッベルス 石田ゆり子
ツァラ・レアンダー シルビア・グラブ
レニ・リーフェンシュタール 新妻聖子
エーリヒ・ケストナー 今井朋彦
フリッツ 小林隆
グスタフ・フレーリヒ 平岳大
エルザ・フェーゼンマイヤー 吉田羊
グスタフ・グリュンドゲンス 小林勝也
エミール・ヤニングス 風間杜夫
ピアニスト 荻野清子
会場は、森ノ宮ピロティホール。
座席は、S列上手ブロック。
会場の大きさは、ドラマシティを一回り大きくした感じ?
座席は傾斜になっていて見やすい…と思ったんですが、前の男性が背が高く、舞台中央がやや見えにくかったです。
結構傾斜がきつくなっていた場所だったんですが…それでも見えにくいって、どんだけだ(涙)
と、座席についての愚痴は、これくらいにしまして。
劇場はJR環状線森ノ宮駅から近く、レモンイエローの建物で、非常にわかりやすかったです。
舞台上のセットは、ゲッベルスの別荘の居間。
中央に階段。
上手は奥の方にソファがあり、そこに人がいてもちょっと見えにくく。
下手は前方にソファがあって、こちらの方はよく見えます。
階段はゲッベルス夫妻の私室につながり、上手袖からは食堂へ。
下手奥後方から庭に出られて、下手奥袖は玄関に続いている設定。
1幕は、ゲッベルスの別荘に、人々が集まってくるまで。
その過程で、それぞれの人物像が描かれていきます。
2幕は、夕食のあと、居間に戻ってきた人々に映画の構想を発表するところから。
「風と共に去りぬ」(略して「風とも」)を超える映画を!と興奮するゲッベルス。
配役、スタッフを発表していく中で起こるハプニング。
三谷さんは、
「ゲッベルスはああいう狂気に走った人間なんだけど、愉快な部分もあったんだよ」という描き方はしたくない。
あくまで、「こんな愉快な人間だけども、狂気に走ったんだよ」という描き方でなくてはならない。
と、プログラムのインタビューで書いていらっしゃいますが、まさしくそういう舞台でした。
ハプニングまでの、それぞれの人々は、みんな気のいい隣人なんですよね。
ちょっと頑固だったり、威張っていたり、女好きだったり、虫好きだったり…。
1幕、楽しかったです。
いっぱい笑いました。
2幕も、ハプニングまでは、基本笑いあり。
ところどころで、緊迫感もありましたが、それも普通の生活の中に起こりうる緊迫感。
それまでが、普通だったからこそ、以降の狂気が怖かったです。
狂気…。
それすら日常であることの怖さ。
ゲッベルスの台詞の中に、「ある一日を焦点にして、その人の人生を描くというのもいいんじゃないかな?」というような台詞があります。
この舞台は、まさに、そんな感じでしょうか。
この一夜で、ゲッベルスをはじめとするナチスの人々の姿を描いている。
そんな風に思いました。
■ゲッベルス
のほほんとした気のいいオジサン部分と、お調子者の女好きの部分。
そんなときの小日向さんの顔は、ほんといい人なんですよね。
それが、一転、ナチスの高官の顔になったときの、凶悪さ。
そして、どこまでも身勝手なところ。
凄みを感じました。
■ヒムラー
イメージは、冷血無比でした。
あ、それは、歴史上の人物としてのヒムラーに対するイメージ。
言うほどには、知らないですが、ヒトラーの懐刀で、実はヒトラーよりも怖いじゃないかとか。
舞台のヒムラーは、庭の整備に夢中になって、害虫を殺さずどこかに逃がそうとしている人。
ぬるめのホットミルクが好きで、意外にかわいい面もある人です。
登場人物の中で唯一招かれざる客。
映画とは関わりのない人ですから。
でも、やっぱり親衛隊隊長ですから、そこにいるだけで、ある種の威圧感。
■ゲーリング
特殊メイク?
でっかかったです。
この人も狂気に陥った人…なんでしょうが、ゲッベルスやヒムラーとはちょっと違うように感じました。
もう少し、状況がわかっていて、その上で、狂気に流されているような感じ。
白井さんの、プログラムの談話は、非常に興味深かったです。
さすが、演出もされる方だなあ…と思いました。
■ゲッベルス夫人
かわいくて、綺麗でした。
理想の夫婦を演じる様が見事で、ケストナーにドキドキするのが可愛かった。
ラスト、もっとショックを受けるのかと思ったら、淡々としていたのが、怖かった。
そんな風に、普通になっている方が、ゲッベルスやヒムラーのように激昂しているより怖いです。
■ツァラ
大女優らしく、可愛く、ちょっとおばかっぽく。
歌うシーンがワンシーンあるんですが、さすがでした。
ファンテもアムネも、品があって、淑女らしさがある演技だったので、こういうシルビアさんは初めて見たかも。
ちょっと意外でしたが、素敵でした。
■レニ
はまってた…と思います。
高慢で、高飛車な感じが、すごく似合っていました。
ツァラとゲーリングが歌うシーンに割り込んでいくところとか、二人を声でも押しのけていました。
プログラムで、ユダヤ人虐殺と犬猫の保健所での薬殺を、同じような殺戮…と語っていたところにちょっと引きました。
■ケストナー
飄々とした感じがよかったです。
ケストナーの小説、少年少女向けのものしか知らないので、焚書とされた理由などがわからないのですが。
物書きとして、どんな手段であれ、発表できるならいい、という執念が感じられました。
作り手として、発表の場を奪われたら、そうなりますよね。
■フリッツ
感情を完全に抑制して、執事として働いているのが格好良かったです。
ラストまで、自分の仕事を全うするのとか。
抑えた演技だからこそ、その奥にある感情が見えたときが、辛かったです。
■フレーリヒ
あまり自分で考えない、顔が良いだけの俳優らしかったです。
うーん、ちょっと印象が薄め。
■エルザ
調子のいい、頭空っぽの女優。
…に見せて、実はしたたかで、上昇志向の強い新進女優。
でも、やっぱり自分の立場を冷静に見れず、破滅に向かってしまう。
見ていて、はらはらもするし、いらいらもする女性でした。
■グリュンドゲンス
渋くて格好良かったです。
役所も往年の名俳優なので、渋くて格好いいんですが、それらしく、格好良かったです。
ラスト間近で、グリュンドゲンスには、「えー??」と思わず叫ばされました。
また、自分の信念を曲げないところも格好良かったです。
■ヤニングス
役者であり、演出家でもあり。
この人も、表現者で、自分の作りたいモノのために、ゲッベルスにすり寄る。
レニが重用されるのに対し、機会を得られないため、必死になっている感じ。
でも、軽妙な演技で、楽しかった。
しめるところはビシっとしめるのが、さすがでした。
…なんとなく、とりとめのない感想になってしまいました。
見終わったときは、ラストの重さと、三谷さんが何故これを作りたかったのかという疑問で、頭が軽く思考停止状態。
プログラムでは、水木しげるさんの「劇画ヒットラー」を読んで、ヒトラーとその周辺の人々に興味を持ったのがきっかけとありました。
商店街のおじさんみたいなゲッベルスが、ヒトラーと出会うことで、狂気に走っていく。
やはり、「普通の人でも、あんな狂気に陥ることがある」ということがテーマ?
ゲッベルスに限らず。
そんな中で流されなかった人もいる…というのも、プログラムの受け売り。
ただ、単なる歴史群像ではないのだろうとは思います。
「あの方」にあたる何かは、現在の日本でも、存在しうる…かも。
特別な世界ではなく、日常の世界に、「あの方」にあたるものは、潜んでいるのかもしれません。
全体に、感想が、「国民の映画」を見ていない人には何のこっちゃ…な内容になってしまいました。
(まあ、いつもの感想もそうですが…)